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お茶コラム『朝茶はその日の難逃れ』 第246号

西尾で抹茶製造が盛んになったのはなぜ?

西尾で抹茶製造が盛んになったのはなぜ?

皆さん、こんにちは。あいやの本多です。

今回は、西尾でなぜ抹茶製造が盛んになったのか、より詳しい歴史についてお話をいたします。

一般的に、西尾で抹茶製造が盛んになったのは、温暖な気候、肥沃な土壌、豊富な水資源が整い、お茶の栽培に適していたからだとされています。

それらは必要条件ですが、実際はもう少し深い理由があります。

西尾市の図書館には、『西尾市史史料 全4巻(西尾市史編纂委員会著)』があります。
それをひも解くと、以下のような事実が分かります。

まず、もともとお茶は高貴な方の薬として重宝されていたため、茶の木がお金になることは周知のことでした。
『実相寺と正念寺の茶の木論争判決書(1692)』、を参照すると、茶の木は珍重され、売買の対象になっていたという記述があります。
そして、この頃から、西尾市にはところどころにお茶の木が植えられていたようです。
でも、まだ産業にまではなっていません。

時が流れます。

1858年に鎖国が終わり、諸外国との貿易が始まると、茶は生糸に次ぐ重要な輸出品となりました。

その結果、国内の茶への関心が急速に高まりました。

東西に、京都、静岡という茶の二大産地に囲まれているため、西尾はその影響を強く受けました。
その結果、茶業を志す若者が多数いました。
その上、お茶作りに適した自然環境が整っていたため、お茶作りを始めるのは自然の流れといえます。

しかしながら、静岡、京都に比べ後発であるため、普通に茶業を始めても生き残ることはできません。
そのため、西尾では、玉露などの高級茶の製造を中心にし、他産地との差別化戦略をとったのです。

西尾の茶業者たちは日々研究を重ね、製茶技術を磨きました。
しかし、それでも西尾での茶業の未来は明るいものとはいえませんでした。
そこで、生き残りをかけて、当時もっとも取引単価の高い碾茶の生産へと舵を切ったのです。

その一番の決め手は取引先の尾張地方(現在の名古屋地域)で特に碾茶の需要が高かったためです。
具体的には、尾張地方では、尾張徳川家(特に7代目宗春の時代)の影響で茶の湯文化が庶民にも浸透していたため、抹茶への需要が高かったのです。
ちなみに、『西尾茶の経済地理学的研究』によると、尾張地方は碾茶において日本全消費高の4割を占めていたと記されています。

このようにして、西尾で茶業が始まり、現在の抹茶生産へと至ったのです。

いかがだったでしょうか。

西尾で抹茶が盛んな理由は単に自然環境に恵まれていたからだけではありません。
先人達が茶産地としての生き残りをかけた結果、その必然として抹茶に行きついたのです。

より詳しい西尾の歴史を知りたい方は、西尾市の図書館で、『西尾市史史料』をひも解いてみてくださいね。